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高原友生さんが逝去、84歳 [歴史]

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12月4日に高原友生氏が亡くなったことを、新聞とネットニュースの訃報で知った。記事は「高原友生氏(たかはら・ともお=元伊藤忠商事常務、元CRCソリューションズ〈現伊藤忠テクノソリューションズ〉社長)4日午前3時11分、老衰のため東京都世田谷区の自宅で死去、84歳。岡山市出身。葬儀は近親者で済ませた」と簡素なものだった。それは広く一般の読者を想定するメディアとして当然のことだが、情報サービス産業にかかわる立場では一言も二言も付け加えておかなければならない。
伊藤忠商事から、全く畑違いのCRCソリューションズに社長として移籍した直後、筆者がインタビューしたとき、「わたしはこの業界のことが全く分からない。よろしく道案内をお願いしたい」と頭を下げられたときは驚いた。塚本祐造氏が果たせなかった業界代表の役回りを、情報サービス産業協会会長として達成したが、折から“2つの中国”問題とコンピュータの西暦2000年問題に直面した。現役引退後は東京・新橋に「日本・ミャンマー商工会議所ビジネス協議会」(現ミャンマー総合研究所)を設立して理事長に就任、2002年に藍綬褒章を受けた。
 著書『商戦』(中央公論社・2002年3月)は山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公のモデルの一人として、伊藤忠商事時代の石油をめぐる駆け引きを描いたものなので、いかにもだが、『悲しき帝国陸軍』(同・2000年8月)は平和主義者の氏に似つかわしくないように思われた。その本意を知ったのは、拙著『日本IT書紀』のためのインタビューをしたときだった。3代続く軍人の家に生まれ、陸軍幼年学校から士官学校を経て、歩兵第五十八連隊に進み、連隊旗手となった。前線に出たのは1944年2月に発令されたインパール「ウ」号作戦である。
 「ひどい作戦だった。戦いなんていうものではなかった。ビルマの人にはたいへんな迷惑をかけた。にもかかわらず、たいへんなお世話になった。それは終生忘れない」と語っていた。ビルマとは、すなわちミャンマーである。同国の経済・文化振興に、残りの人生を賭ける。ひいてはそれがアジアの平和につながる、という決意があった。生涯を通 じて平和を欣求 した。ご冥福を お祈り申し上げます。(2009.12.20)
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