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桜井茶臼山古墳での発見 [歴史]

 夢の話である。こうしたい、こうなったら……という話でなく、寝ているときに見る夢のことだ。暗くて細いトンネルのような道を進んでいくと、ワッと空間が広がって、金色に輝く甲冑が立っている。兜には源平時代の鍬形や戦国時代の立て物がない眉庇型、鎧は短甲で綴はない。それはたぶん、博物館で古墳時代の武人埴輪を見たからで、夢の中で大発見にうろたえ興奮したことを覚えている。ずっと後になって、出来上がったばかりの銅鐸は金色に輝くということを知った。当時のまま青銅を砂の金型に流し込んで実際に作ってみる実験考古学の成果だが、夢の中の甲冑が金色に輝いていたのはまんざらじゃなかったわけだ。
 奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳で、全面に朱が塗られた竪穴式石室と木棺が確認された、と橿原考古学研究所が発表した。同古墳は紀元3世紀末から4世紀初頭の建造と推定される全長2百メートルの前方後円墳だが、上から見ると前方部が細長い四角形なので「手鏡型」と分類することもある。確認されたのは辰砂とも呼ばれる水銀朱で、血の色が生命や活力に通じるとして、弥生時代の甕棺でも確認されている。今回確認された朱の量は少なくとも2百キロというから、同古墳の被葬者が紛れもなく大王であったことを示す。
 桜井市には3世紀中葉の建造と推定され、卑弥呼の墓に比定する人も少なくない箸墓がある。両古墳とも三輪山の北西麓一帯に広がる広大な纒向遺跡を構成するもので、西日本各地の様式を示す土器片が発掘されている。人や物が集まる古代都市があったことは疑いなく、道が四方八方につながるという意味の「やちまた」がヤマトの語源とする説を補強する。茶臼山古墳での確認は邪馬台国畿内論や、『記・紀』が伝える崇神天皇が実在した初代大王とする説を支えることになるだろう。
 ただ纒向遺跡に包含される古墳群には、拙者が夢で見た武人の面影はない。その風を感じるのは筑紫(福岡県)、吉備(岡山県)、埼玉(埼玉県)、上毛(群馬県)といった地域であり、畿内では大阪府堺市の百舌古墳群だ。甲冑、鉄の剣、鐙や馬具の飾り、王冠などが発見されているので軍事型統治、纒向は農耕を基盤とする共同型統治を思わせる。その変化がいつ、どのように起こったのか、この国の成り立ちを解明するのに古墳の発掘は欠かせない。宮内庁が立ち入りを制限している「陵墓参考地」を学術研究に開放するのも改革の一つである。(2009.10.24)
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